金沢地方裁判所 昭和30年(つ)1号 判決 1958年5月15日
請求人 大桑孝雄
決 定
(請求人・代理人・被請求人氏名略)
右審判請求事件について、当裁判所は審理を遂げ、次の通り決定する。
主文
本件請求を棄却する。
理由
一、本件審判請求の要旨
本件審判請求の要旨は、被請求人石林弘之及び新田貞治はいずれも公安調査官で、石林弘之は石川地方公安調査局長として、また新田貞治は同公安調査局員として夫々勤務し、右新田は予てから石林の命を受け日本共産党(以下「日共」又は「党」と略称する)の情報を探知せんとし、昭和三十年一月から同年六月二十日頃迄の間に金沢市荒町二丁目三十六番地に居住する日共党員室橋竜次に対し執拗に同党の情報提供方を要求していたが、その間共謀の上、被請求人新田において、右室橋が最初その要求を拒絶したにも拘わらず執拗にこれを迫つて強要し、又情報を提供すれば謝礼を出すと甘言を用い、遂に同年六月五日右室橋方において同人に金一千円を交付し、同人をして同党機関紙「県民の友」及び同党通達「小牧基地反対闘争に関する文書」各一枚を提供せしめ、以てその職権を濫用し、右室橋をして義務なきことを行わせ、更にその頃予め右室橋に金一千円を交付して情報提供方を要求した上、同月二十日被請求人新田は更に右室橋方に赴き同家において同人に対し同党の情報提供を迫り、同人がこれを拒否したにも拘わらず「指令や通達、特に富士山や小牧基地反対のものが入手できれば一万円貰つてやる。金は政府予算から出ているから君の生活を保障する」旨の甘言を用い、同人が再三拒否したことに対し、「今迄何回も会つているのだから、もういいかげんにはつきり話したらどうだ」と威迫的言辞を弄してこれを強要し、以てその職権を濫用して右室橋が同党々員として正当な活動をすべき権利を妨害したものであり、被請求人石林及び同新田のこれらの所為は破壊活動防止法(以下「破防法」と略称する)第三条所定の同法運用の基準を逸脱して、日本国憲法の保障とする国民の自由と権利(とりわけ主権在民の本旨に基づく国民の政治活動の自由及び憲法第二十一条の結社の自由)を不当に制限したものであつて、破防法第四十五条の公安調査官の職権濫用罪に該当するものである。
よつて、請求人は昭和三十年六月二十三日金沢地方検察庁に対し被請求人両名を破防法第四十五条違反として告発したところ、同地方検察庁検察官検事三原健三は昭和三十年八月六日付をもつて右告発事件を不起訴処分に付し、同月七日請求人はその旨の通知を受取つたのであるが、右不起訴処分は不服であるから事件を金沢地方裁判所の審判に付せられ度く本件請求に及んだというのである。
二、公安調査官の調査権の限界
よつて、先づ公安調査官の調査権の範囲並びにその限界につき考察するに、公安調査官は破防法による規制に関してのみ調査権限を有し、而も同法のいかなる条項によつても強制調査権限を附与されておらず、あくまでも任意の調査権限しか有していないが、それにも拘わらず、なお破防法の運営の一端を担う公安調査官の調査については極めて国民の人権に干渉するところが大にして、一度その行使を誤まれば不当に人権侵害に至る危険を常に内包しているのである。斯る故に同法第三条においては同法による規制及び規制のための調査は、団体の活動としての暴力主義的破壊活動から公共の安全を確保するために必要な最少限度においてのみ行うべき旨が特に明定され(調査基準)、国民の基本的人権を保障する憲法の趣旨が再確認されているのである。而も同法第二十七条は公安調査官に斯る基準の範囲内においてのみ必要な調査をすることができる旨を定め(適正なる職務権限)、この基準を逸脱した調査はそれが破防法による規制に関するものでも、なお違法な調査行為即ち同法第三条、第二十七条に違反する(職権を適正な限度を超えて行使したことになる)ものとし、該調査行為により、或はその過程において人をして義務のないことを行わせ、又は行うべき権利を妨害するときは直ちに同法第四十五条に規定される職権濫用罪の特別構成要件を充足し、刑法第百九十三条の一般公務員の罪よりも刑が加重されるのである。併し同法第三条にいわゆる「第一条に規定する目的を達成するために必要な最小限度」とは公共の安全を確保するに必要な最小限度にして、公共の安全の度合(その時々の治安状況の如何)によつて異る相対的のものであると解するのが相当である。
又公安調査官の調査は、破防法第二十七条に示す通り「団体の活動として暴力主義的破壊活動を行つた団体に対する規制に関し」てなさるべきもので、そのためには犯罪捜査と異り、個々の暴力主義的破壊事件と団体との結びつき及びその団体が将来も継続して同種の活動をなす虞れがあるかどうか迄も調査し、その資料を蒐集しなければならないのである。従つて事件発生当時のみならずその後も数年間引きつづき調査を進め、相当長期にわたつて調査活動が続けられることは当然の帰結といわなければならない。
三、終戦後昭和三十年六月頃迄の我国の治安状況
従つて新田調査官の調査活動につき判断するに先きだち、第二次世界大戦後本件当時頃迄の日共の活動方針及び活動状況及び内外における社会情勢(治安状況)がどのようであつたかを通観してみなければならない。
よつて当裁判所は事実取調の必要上、証人山田誠、同関之(第一回)、同風早八十二、同伊藤修、同和田義穂、同市岡義一、同村田信人、同杉浦常男、同扇能忠生を尋問したその各証言、領置にかかる「最近における日共の基本的戦略戦術(一、二)」「公安調査資料」(昭和二十九年十一月三十日号)、「戦後日本共産主義運動」及び「日本共産党規約新旧対照条文」なる文書を綜合すれば第二次世界大戦が終末を告げ漸くにして世界に平和への曙光が輝き始めたが、戦争の傷痕も生々しい日本国民は経済的にも社会的にも混迷の真只中に喘いでいた。その頃日本共産党は野坂参三などを中心に「愛される共産党」を唱道し、次第に日本国民のなかにその支持を得るようになり、遂には昭和二十四年一月の衆議院議員総選挙において約三百万票を獲得し、三十五議席を占むるに至つた(尤も当時の治安の面では必ずしも平隠であつたとはいえず、平市騒擾事件、三鷹事件及び松川事件などが次々と起つていた)。然るにその後昭和二十五年一月コミンフォルム機関紙及び中国人民日報などによつて従来の日共の平和革命論が国際的に批判され、日共も結局はその批判を受け入れ、爾後漸次平和革命方策から遠ざかり、同年六月六日マッカーサー元帥によつて日共全中央委員追放が指令される前後頃から日共の活動は次第に非公然化し、朝鮮人等による暴動事件と目すべきものが二、三起り始めていた。国外では同年六月二十五日朝鮮戦争が勃発し、同月二十七日国連が、同年十月中共軍が夫々これに介入し、国際間は次第に緊張の度を強めていつた。このような情勢のもとに、日本共産党は、昭和二十六年二月二十三日第四回全国協議会を開催し、「組織問題について」「軍事方針について」等を採択決定し、前者では主として細胞を中心とする非合法活動を強化することを、後者ではいわゆる遊撃隊を組織し、工場、鉱山、農漁村を活動の拠点とすること等を説いていた。以後次々と全国各地に従来の合法組織の外に日共のビューロー組織ができはじめ、更に同年十月三日頃第五回全国協議会を開き、この際新しい綱領を採沢すると共に「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」との論文が、右綱領に基づく具体的指針として確定された。右論文においては軍事組織の必要なことから、労働者や農民の抵抗自衛闘争を強化し、また中核自衛隊を組織してこれらの組織の基礎の上にその発展を通じて日本におけるパルチザンを組織せよとか、軍事基地、軍事施設、軍需工場、軍需倉庫、軍事列車などの襲撃及び武器の奪取等について説いている。更に昭和二十七年一月二十三日中核自衛隊の組織機構武器資金及び遊撃作戦等について論説した「中核自衛隊の組織と戦術」たる論文が発表された。而して斯様な日共の武力革命方策は内外評論、球根栽培法、工学便覧、栄養分析表(火焔瓶の製法を含む)等の名義文書によつて党員間に秘かに頒布されていた。一方その頃、右の如き日共の革命方策の変更に符節を合するが如き暴力主義的破壊活動と目すべき事件が相次いで発生した。即ち昭和二十六年十二月二十六日の東京練馬印藤巡査殺害事件をはじめ、以後昭和二十七年八、九月頃迄の間に札幌白鳥警部射殺事件(昭和二十七年一月二十一日)、長野県田口村の警察官に対する集団暴行傷害、拳銃奪取事件(同年二月三日)、東京都内蒲田における集団的警察派出所襲撃及び拳銃奪取事件(同年二月二十一日)、京都市内四条大橋巡査派出所及び三条大橋派出所のデモ隊による集団襲撃事件(同年二月二十三日)、同様デモ隊による京都市内四条大橋派出所襲撃及び同市役所前の警官との衝突事件(同年三月二十日)、神戸湊川公園事件(同年三月三十日)、東京メーデー騒擾事件(同年五月一日)広島における被告人奪還事件(同年五月十五日)、東京都内岩之坂巡査派出所のデモ隊による襲撃事件及び新宿駅前騒乱事件(いずれも同年五月三十日、この日は各地で右類似の事件がいくつか起つた)、大阪府内吹田騒擾事件及び同枚方並びに兵庫県姫路市の集団的暴力事件(いずれも同年六月二十五日いわゆる朝鮮戦争勃発記念日)名古屋市内大須騒擾事件(同年七月七日)、東京都内小河内ダム工事現場集団暴行事件(同年七月九日)、山梨県の曙村の山林地主佐野嘉盛方に対する集団襲撃事件(同年七月三十日)、埼玉県の大河村の山林地主横川重治前代議士宅に対する集団襲撃事件(同年八月六日)等のごとき一連の戦慄すべき大事件が続発した。なお、その頃右に類似した不祥事件が全国各地に頻発し、火焔瓶、竹槍、石、木片等が武器として盛んに使用されていた。右の情勢下にあつて石川県内においてもその頃同種の事件が各所で次々と惹起された。いわゆる刑務所事件、派出所に爆発物投入事件、検察庁に対する集団デモ事件、金沢市役所投石事件、金沢地方裁判所小松支部における税務署員及び警察官殴打事件等の如きこれである。その後この種の事件は漸減の兆を見せたとは言え、なお日共は依然として中核自衛隊組織や非合法組織を存続せしめ、全国各所で軍事会議の如きを屡々開き、これに基き武力革命を正当とし、その必要性を主張しているものと推察されるが如き各種の文書が頒布されていた。然し漸く昭和三十年七月日共第六回全国協議会が開かれ、その後はじめてこれら組織の解体や武器の廃棄等を指令したことが認められる。尤も右認定の如き暴力主義的破壊事件が、真実日共又はその党員の活動と関係があるかどうか、又あるとすればどの程度のものであるか、更にまたそれらが果たして夫々犯罪を構成し、且つそれにつき十分なる嫌疑があるかどうかはいずれも明白でなく遽に断定すべきところではないが、一般に巷間においては日共又はその党員のうちの過激分子の関与するものであると軽信され、或は少くともそのような疑念を抱かれ、且つ噂されていたことは公知の事実である。
以上の如く昭和二十六年頃から本件発生当時頃迄における我国の治安状況は極めて緊迫し、公共の安全は明白、且つ急迫した危険に曝されていたものと認めるのが相当である。
四、新田調査官の調査活動の具体的経過
そこで新田調査官と室橋竜次との交渉経過につき審按し、以て同調査官の調査活動が調査権の限界を越えていたか否かを検討するに証人室橋竜次、同室橋一枝、同中西初夫、同杉浦常男の各証言と検証の結果被疑者新田貞治の供述及び金沢地方検察庁より送付を受けた本件についての不起訴記録中昭和三十年六月二十六日附新田貞治の検察官に対する供述調書(謄本)、同月三十日附室橋竜次の検察官に対する供述調書(謄本)、並びに領置にかかる「県民の友」(昭和三十年五月二十日発行第二〇四号)、「小牧原爆基地反対闘争について緊急指示一九五五、五、一五」と題する文書の写真及び昭和三十年七月二十六日附新田貞治の検察官に対する供述調書等を総合して、仔細に検討してみるに次の事実が認められる。
(一) 被請求本人新田貞治は公安調査官で、石川地方公安調査局に勤務し、同じく公安調査官で同地方公安調査局長である被請求人石林弘之のもとで、その指揮命令を受け破防法に基き、暴力主義的破壊活動を行つた疑ある団体として、日共その他の団体の組織、活動等を、特に管下石川県内におけるそれを調査する任に当つていたものであるが、昭和三十年一月日共の党員である室橋竜次に接近し、同人より党の情報を蒐集しその調査を進めようと企て、さして面識もなかつた同人を、同月二十日頃の午前十時頃最初にその居宅である金沢市荒町二丁目三十六番地薬師庵こと高橋竜仙方に訪れたところ、右室橋竜次は留守であつたため、翌二十一日午前十時頃再度同人を訪問し情報蒐集方の協力を依頼したが、その際同人より体よく拒絶された。その後毎月二度三度と回を重ねて訪問し、手土産として菓子類等を持参し更に協力方を懇請しているうち、同年三月頃から日共の機関紙の発刊状況、組織の現状、選挙活動、等について僅少ながら情報の提供を受けるようになり、以来同年六月二十日に至る迄同人の協力を得て同党に関する調査活動を続けて来た。その間、同年六月初旬頃には党地方委員会名義の「小牧原爆基地反対闘争についての緊急指示」と題する同年五月十五日附文書一通及び同党石川県委員会の機関紙である「県民の友」(昭和三十年五月二十日発行第二〇四号)一部(何れも同党々員をはじめ一般国民に公開しても党にとつて左程差し障りのあるものではない)の提供を受けたので、これに対する謝礼及び向後における協力の報酬の意味で現金一千円を同人に供与し、同月十五日頃には「党政治学校開設」に関する通達文書外一通の閲覧を得たので、その際これに対する謝礼及び向後の協力に対する報酬の意味で更に現金一千円を提供した。次で同日二十日にも情報を得ようとして同人方に赴いたところ、前回同人に提供した二千円の現金を返されると共に、党から除名される危険のあることを理由に、爾後における協力を拒否されるに及んだ。そこで新田調査官は「党には絶対に知られないように注意する」旨及び「金がいるならば資料や情報の如何によつては謝礼として一万円位は出してもいい」旨を述べて更に協力の続行を懇請したこと。
(二) その間約五ヶ月間に亘り、右室橋方を訪問すること十五乃至二十回に及び、同人又は同人の妻一枝から、一度ならず協力と訪問を断わられた(尤も同人らのこれを拒んだ態度は強いものではなく、些か曖昧な様子が窺知される。ちなみに右室橋から新田調査官に対し「伊藤律氏が三万円でスパイ行為をしている」等といつて相当額の金銭を提供して欲しい旨の口吻を漏らしたこともある)にも拘らず、訪問を繰返し協力方を懇請しているのでこれら一連の事実を通じてみると新田調査官の所為はやや執拗であつたとの誹は免れ難いものであること。
(三) 新田調査官は右室橋に対し前示のごとく同年六月初旬頃に現金一千円、同月十五日頃に現金一千円を夫々提供しており、また同年五月三十一日頃及び、同年六月十日頃の二回にわたり僅少ではあるが、酒食の饗応をしたほか、同人方を訪問する際は多くの場合手土産品として菓子類、煙草(新生)鶏卵、かまぼこ、のし餠、鱈の干物、酒粕等の如き品を持参提供したこと(このうちいくつかは返されたり、受領されなかつたものもある)。室橋は当時家族三人(妻長男正秀六才及び長女慶子二才)をかかえ加えるにレッドパーヂにより失職し且つ無資産のため、さしたる収入もなく多少困窮した生活を続けていたが、同人に対する前記金品の供与は同人にとつても左程多額貴重なものとは言い得ないものであること。
(四) 而して、他に新田調査官において右室橋又はその家族に対し暴行脅迫等不当と目すべき方法をもつて協力を求めたとの何らの事実も認められない。尤も右室橋一枝は「夫の留守に尋ねて来られては家庭生活の円満が破壊される危険があるから来ないで欲しい」旨を新田調査官に申し向けたことは認められるがこの一事を以て前認定の新田調査官の所為が個人の家庭生活の円満を侵す危険があるという程度のものとは認め難く、現に同人の家庭の円満を紊したという事実も見当らない。
また新田調査官において特に破防法に基ずく調査に名を藉りて、他の不当な意図を達しようとしていたという事実も認められない。
五、結論
叙上認定の事実を綜合すれば、新田調査官の室橋竜次に対する右に認定した程度の金品の供与及び情報提供の要求は、其の手段方法において拙劣の譏りを免れないが、併し未だ以て一般に理性を有する人の正常なる判断を誤らせる程度には至らないものと認められる。殊に室橋竜次においては同人の当時の生活の程度状況を考慮に入れても、同人は自由な立場において之を拒否し得るものであり、特に同人が党員として日共の厳格な規律統制に服し、その監視を受ける地位にあつたものであるから、斯かる地位からも同人は新田調査官の要求を拒否しようとすれば之を拒否し得る立場にあつたものである。よつて新田調査官の前記認定の所為は室橋竜次の正常な判断を誤らせるに足るものと謂うことはできない。又新田調査官が判示のような我国の紊乱した治安情勢のもとにおいて、その情報蒐集に努力した形跡よりみるときは、当時の公共の安全を確保するために必要な最少限度を超えた違法性が存するものと解することはできない。即ち同調査官の調査活動は破防法第三条の基準を逸脱するものでもなく、従つて又同法第二十七条に違背するものでもない。又同調査官が日共を破防法による調査の対象としている点についても前示の如き事件が頻発し、而も巷間これらはいずれも日共の活動に関係あると疑われていたものであること前認定の通りである以上これを相当なものといわなければならない。
然らば、新田調査官の所為はいずれにしても結局違法というべきものではなく、破防法第四十五条の職権濫用罪を構成しないと解するのが相当である。従つて又新田調査官に対し監督的上位の地位にあつた被請求人石林公安調査局長についても同様に同条の罪を犯したものということはできない。
よつてその余の点について判断を進める迄もなく、検察官のなした前示不起訴処分は相当であつて、結局本件審判請求は理由がないので刑事訴訟法第二百六十六条第一号後段を適用し、之を棄却することとし主文の通り決定する。
(裁判官 高沢新七 辻三雄 三井喜彦)